ぽんのよしなしごと

書きたいことを書くだけ。

「年上のお姉さんによしよしされたい」とは その1

「年上のお姉さんによしよしされたい」

某A氏がTwitter上で度々つぶやいていたことである。

私はこれまでこの言動をA氏に見られる奇行の一つだと思っていたのだが、本日急にこの真理を理解してしまったので、ここにそのロジックについて記すことにする。

一人でも多くの人がこの言動について理解し、温かい目で見守ってくれるとありがたい。

 

さて、まずあなたは「年上のお姉さん」と聞くと何を思い浮かべるだろうか。

自分がもうそこそこ年を重ねていて、年上というといい感じに熟した女性しか該当しない、という方は自身が中高生でお姉さんは大学生あるいは社会人数年目、というシチュエーションを想定してみてほしい。

中高生以下にとって年上の人というと、自分よりもかなり多く人生経験を積んでいる大人に見えるものである。

そしてそんなお姉さんによしよしされる、というと「大人の色気」であったり「やわらかいものに挟まれる」だったり、性的なものを思い浮かべる人がいるだろう。

しかし、少し待ってほしい。見目麗しい女性によしよしされて性的なことをしてほしい、と考えるのであれば、「年上のお姉さん」である必要があるのだろうか?

もちろん、ここにA氏の性癖がかかわっていることも事実であろう。しかし私はここにそれを超える何かを感じた。そしてその思考のキーになったのが「バブみ」である。

バブみとは、簡単に言うといい年をした男性が未成年、それも小中学生の女児によしよしされてそこに母性を感じる、というものである。近年そこから性行為を連想するものも多々見られるが、それは本質ではない。バブみにおいて重要なのは「母性」なのである。

母性、それはつまり受け取る側からしたら包容力そのものである。どんな自分であれ相手がこれを肯定し、受け止めてくれる。つらい現代に生きる我々が厳しい現実に立ち向かい、ボロボロになったところを優しく受け止め、癒してくれる存在を求めるのは不思議ではない。A氏もいい年をした男性たちも、みなこの母性を求めているだけなのだ。

ではなぜ彼らの母性を求める先が異なっているのだろうか。これはひとえに彼らの年齢の違いである。

中高生という時期は彼らの自我が芽生え、大人に向かって成長していく時期である。彼らは身近な大人、つまり親の庇護から抜け出して一人前の大人になりたがる。そんな理想の大人が年齢的には大学生~社会人数年目にあたる、というだけなのである。子供っぽいものを嫌うため小学生など眼中になく、また自分の親と近しい年齢の者にも見向きもしない。彼らが様々なものに関して対象とする年齢層は同級生~社会人数年目以外ありえない。そしてそこに母性を感じるとしたら大学生~社会人数年目をおいて他はないのだ。

いい年をした男性たちにとって、年上というと相手は化け物しかいない。「歳を取ると女性は化け物になる」という言葉もある。化け物がこちらに母性を注いでくれることはあり得ない。では彼らに最も母性を注いでくれる可能性が高い年齢層はどこであるか。

同年代から上は上記の通りありえない。中高生は犯罪臭がパナい。それ以上の年代となと年上風を吹かせたくなってしまう(想像)。となると、残ったのは小学生しかない。

より犯罪臭がやばくなったという考えもあるだろうが、それはあくまでこちらからアクションを起こした場合である。小学生が無邪気ゆえにただただこちらを励ましてくれている。我々が勝手にそこに母性を見出しているのだ。これなら問題ない(問題しかない)。

以上より、「年上のお姉さんによしよしされたい」は決してA氏の性癖の発露ではなく、優しく包まれたい、守られたいという一種のSOSなのである。

友達がいない、自分を認めてくれる人がいない、現実がつらい。そんなA氏が自らを守るために生み出したのが「年上のお姉さんによしよしされる」という概念なのだ。

(私も少し気分が弱っていた中でこれに気付いたのでたぶん間違いない。)

これから「年上のお姉さんによしよしされたい」と言っている人を見かけたら、ぜひ温かく見守ってあげてほしい。彼らはつらい現実にあらがうため、Twitterにそうつぶやくことで自身の中にお姉さんを具現化し、疑似的によしよしされて自らの精神を回復させているのだ。誰がこれを責められようか。TLにわけのわからない文章が流れてくるなどいつものことではないか。彼らの回復を願い、優しい言葉をかけてあげることが一番ではないか。

 

もう少し書きたいことがあるので、その2に続く(多分)